両義性を保つ

生きづらさを感じる私、ふくが少しでも生きづらさを解消する考え方、分析などを発信していきます。

絵なんか描いちゃいない!

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こんばんは〜。

世の中は、三連休もおわりですな〜!
最終日の夜は、多少 街がウゴウゴしている。
なか日の夜は、静か!

…地元の話ですw


で、
自分はここ数年、
絵を描く活動をしていました。

最近はすこし、ゆっくりペースになりぎみですが。

それでふと思ったことを書いてみます。

 

絵なんか描いちゃいない!

ずーっと、
『絵なんか描いちゃいない!』
と思ってきました。

まぁ、平面に色と形がのっているので
それを『絵』と呼んで、
自分もそう呼んできたんだけれど。

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別に絵なんか描きたきゃないんですよ。


絵画はファンだけどね!
ロマンだと思う!


ただ、自分のなかで思うことがあって、
それをペンやら絵の具を使って
『具現化』していただけなんですよ。

『可視化』していただけなんですよ。

他者にみえる形にする作業だった、
いわゆる『絵』が。

それだけです。

 

なんでもそうですよね。
自分の頭の中はいつでも自由なんですよ。

けど、人が生きているのは
他者や環境など、『外界と接する場所』です。

脳死にまつわる生死は、
ここでは割愛します。


ならば、外界になにかしらの影響を与える必要がある。

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必要がある、というか厳密には、
まったく影響を与えないというのは
まずありえないんですけどね。

たとえば無人島で完全自給自足なら
『人』とは接触しないかもしれませんが、
『人』と接しないだけで、
自然や、食う、住む、排泄するなど、
なにかしら外界と接触している。


そういう外界と接触する行為と、
大げさにいうと同列だったわけです。
自分にとっての『絵』は。

わかりやすく『絵』と呼びつづけてますけど。

 

絵なんか描いちゃいない、の理由

自分が『絵』なんか描いちゃいない、
というのには理由があります。

それは、
『絵』は『描く』っていいますよね?


いきなりですけど、
『描く』って動詞は、『他動詞』なんですね。

で、自分がやっている作業は、
他動詞』ではない
と感じてきたのです。

『他動詞』とは、目的語を必要とする動詞です。


わかりやすく例を挙げると、

・消す
→『〜を』って言葉が必要ですよね?
つまり、目的語が必要なので、
"消す"って動詞は他動詞なのです。


もうひとつ。


・消える
→『〜を消える』というでしょうか?
いわないですね。

つまり、"消える"という動詞には、
『〜を』という言葉はいらないのです。
『〜を』の部分は、つまり目的語です。

目的語を必要としない動詞は、
自動詞』といいます。


ですから、

・消す
は、他動詞なんですが、

・消える
になると、自動詞になるんですね。


他動詞と自動詞とは、こんなかんじです。

 

で、自分がおこなっている作業は、
『〜を』の部分がない作業
をやっている感覚なのです。


『描く』という動詞には、
『〜を』という言葉は必要でしょうか?
必要じゃないでしょうか??


長くなるので、明日にでも続きを。


このへんは、もっとわかりやすく
まとめ直すかもしれません。


ではでは、今日はこんなかんじです!

よき秋の夜長を〜。

いいかんじに、暖かく、
天気がいい日がまた続くといいですな(^^)

 

End